77. 『マンタ』急がない者だけが見る景色 “海を舞う美しき芸術家”の素顔
大海原を、
まるで優雅に羽ばたく影が見えます。
それはとてもゆっくりと、心地よく、
海の流れをただ漂っているかの様な余裕。
マンタです。
多くのダイバーの心を掴み
,
まるで時間が止まったかの様な、
恍惚感を抱かれてくれる。
まさに海の偉大な芸術家です。
マンタの生態と捕食
マンタはトビエイ目イトマキエイ科イトマキエイ属(Mobula)に属する大型のエイです。
かつては独立したManta属に分類されていましたが、現在はMobula属に統合されています。
マンタ類には、沿岸のサンゴ礁や島嶼域を中心に暮らすナンヨウマンタ(Mobula alfredi)、外洋を広く回遊するオニイトマキエイ(Mobula birostris)、そして2025年に正式記載された大西洋のマンタ Mobula yarae の3種が知られています。
中でも最大種のオニイトマキエイは、胸びれを広げた体盤幅が7メートル級に達することがあります。
巨大な体を持ちながら、その泳ぎは驚くほど穏やかで、まるで空を滑空する鳥のようです。
体の前方には二本の頭鰭があり、普段は巻かれていますが、摂食時には前方へ広げ、
プランクトンを含む海水を口へ導きます。
主な餌は動物プランクトンやオキアミ、カイアシ類などで、ときには小型魚も利用します。
取り込んだ海水から、特殊化した鰓板で餌だけを濾し取る濾過摂食を行います。
プランクトンが濃密に集まる場所では、大きな胸びれを羽ばたかせながら何度も円やループを描くように泳ぎ、
同じ餌場を効率よく利用する姿も観察されています。
クリーニングステーションで他の魚と共存
生息域は熱帯から亜熱帯を中心とした暖かい海です。
日本では沖縄や小笠原諸島、伊豆諸島、屋久島などで観察される機会が多く、
水深数メートルの沿岸から数百メートルの外洋まで広く利用します。
特にサンゴ礁周辺には「クリーニングステーション」と呼ばれる場所があり、
ホンソメワケベラなどのクリーナーフィッシュに体表の寄生虫を取り除いてもらうため、
同じ場所を何度もゆっくり旋回します。
この行動は健康維持だけでなく、個体同士が出会う社交の場としても機能していると考えられています。
近年の衛星標識調査では、マンタが数百〜数千キロに及ぶ長距離回遊を行うことも明らかになっています。
しかしアオザメのように外洋を一直線に横断するのではなく、
海流やプランクトンの発生、水温の変化に合わせて餌場を巡る回遊が中心です。
広い海を旅しながらも、その動きにはどこか急ぎすぎない余裕が感じられます。
繁殖──ゆっくり育てる、大きな命
マンタは卵無胎盤性胎生(aplacental viviparity)で繁殖します。
母親の体内で卵がふ化し、胎児は卵黄を吸収しながら成長します。
さらに発育が進むと、子宮内で分泌される栄養豊富な子宮乳(ヒストトロフ)を口から摂取し、大きく育ちます。
妊娠期間は種や研究によって幅がありますが、およそ1年前後と考えられています。
出産する仔は通常1尾で、双子は稀です。
ナンヨウマンタでは、生まれた仔の体盤幅が約1.5メートルにも達します。
マンタ類は成長と繁殖が非常に遅く、成熟まで長い年月を必要とします。
さらに雌は毎年出産するわけではなく、ナンヨウマンタでは平均して2〜3年ほどに1尾、
地域によってはさらに長い間隔が空くこともあります。
こうした低い繁殖力はマンタ類の大きな特徴です。
そのため、漁獲や混獲などによって成体が失われると、
個体群が元の状態へ回復するまで非常に長い時間を要します。
マンタ類は現在、漁業などの人為的圧力に対して極めて脆弱な海洋生物として、
国際的な保全の対象となっています。
捕食と天敵──争わずとも生き残る巨体
巨大な体を持つマンタですが、肉食魚のように獲物を追い回すことはありません。
主食はプランクトンやオキアミなど小さな生物であり、海流へ身を任せながら効率よく餌を集めます。
その姿は力で奪うというより、海が運んでくる恵みを静かに受け取っているようにも見えます。
一方、成体の天敵は多くありません。
最も知られているのはシャチと大型のサメ、特にホオジロザメやイタチザメです。
幼魚はさらに多くの大型捕食魚に狙われますが、
成長した個体はその巨大な体と力強い胸びれによって捕食される機会は限られます。
現在、最大の脅威は自然界の捕食者ではなく人間です。
刺し網や延縄による混獲、鰓耙を利用した漢方需要、沿岸開発による生息環境の変化などが個体数減少の原因となっています。
マンタは貴重な漢方の素材!?
意外ですが、マンタは食用可能で、歴史的には世界各地で利用されてきました。
東南アジアや南アジアなどでは、マンタや近縁のモブラ類の肉が地域で消費され、
煮込みや干物、焼き物などに利用されてきました。
現在でもマンタ・モブラ類の肉を地域的に食べる国は存在します。
しかし、国際的な需要を大きくしたのは身肉よりも**鰓板(さいばん)**です。
これはプランクトンを濾し取るための鰓周辺の器官で、
乾燥品がアジアの一部市場で伝統医療や健康食品の素材として取引されてきました。
科学的な薬効が確立されたものではありませんが、
その需要による対象漁業や混獲がマンタ・モブラ類の個体群減少を招く重要な要因となりました。
マンタ類は成長が遅く、一度の出産で通常一尾しか仔を産まないため、
漁獲によって成体が減ると回復に長い時間を要します。
このためマンタ類はCITES附属書IIに掲載され、現在は国際取引が規制されています。
文化的価値──海を飛ぶ鳥と呼ばれた魚
マンタは古くから「海を飛ぶ鳥」と表現されてきました。
巨大な胸びれをゆっくり羽ばたかせる姿は、
魚というより鳥や凧、あるいは空を漂う雲を思わせます。
ダイバーにとってマンタとの遭遇は特別な体験です。
多くの人が
「時間が止まったようだった」
「海中で呼吸することを忘れた」
と語ります。
その理由は巨大さではありません。
海には速く泳ぐ魚も、強い魚も、派手な魚もいます。
しかしマンタだけが持つ静かな存在感があります。
研究者の間でも、
その高い知能や個体識別能力、
長寿命、
クリーニングステーションへの記憶などが注目され、
単なる大型魚ではなく、
高度な認知能力を持つ海洋生物として研究が進められています。
マンタは決して急ぎません。
大きな翼をゆっくりと動かし、
何かを競うことも、
誰かを追い越すこともありません。
ただ、自分にとって心地よい流れを知り、
その流れの中を漂っていきます。
人は前へ進むことばかりを価値だと思いがちです。
けれど時には、
今いる場所の心地よさへ身を預ける時間が、
人を豊かにすることもあります。
マンタは、
巨大な身体で海を支配する魚ではありません。
その優雅な一羽ばたきだけで、
海そのものを穏やかに見せてしまう魚なのです。