17. 川に一瞬だけ現れる、"美しき魚" 『アユ』
川面に光が走る瞬間があります。水が揺れたのかと思うと、それは一匹の魚の影。
アユ——鮎。 日本の川において、この魚ほど「季節そのもの」として語られてきた存在はありません。
海から川へ、川からまた海へ。わずか一年の命のなかで、鮎は驚くほど鮮やかな軌跡を残していきます。 その姿は常に軽やかで、どこか誇らしく、そして儚い。人はいつの頃からか、この魚に「美」を重ねるようになりました。
アユは、ただ生きているだけで、「きれいであろうとする魚」に見えてしまうのです。
▪️鮎という漢字が語るもの
「鮎」という字は、魚偏に「占」と書きます。この漢字には諸説ありますが、有力とされるのは“川の状態を占う魚” という意味合いです。
鮎が棲める川は清らかであり、鮎が姿を消す川は、すでに何かを失っている。古くから人は、鮎の存在をもって水の美しさを測ってきました。
つまり鮎とは、自らが美しいだけでなく、美の基準そのものとして川に置かれてきた魚なのです。
▪️海から川へ —— 美をまとって戻ってくる魚
鮎は一生を川だけで終える魚ではありません。秋に生まれた稚魚は川を下り、冬を海で過ごします。 春、水温が上がる頃になると、再び川へと遡上してきます。このときの鮎は、まだ名もなき存在です。 しかし川に入り、苔を食み、縄張りを持ち始めた瞬間から、彼らは“鮎”としての姿をまとい始めます。
体は細く引き締まり、背は淡い青緑、腹は銀白。そして特有の、きゅうりやスイカに例えられる香り。この香りは、鮎が川で苔を食べることによって生まれます。 つまり、鮎の美しさとは、環境と関係性の中で生成されるものなのです。
▪️縄張りを持つ魚 —— 美しさを守るという本能
鮎は珍しい魚です。川魚の中でも特に強い縄張り意識を持っています。
自分の食べ場となる苔の岩を中心に、他の鮎が入ってくると、容赦なく追い払う。 この習性は、友釣りという独特の漁法を生みました。一見すると、鮎は穏やかで優雅に見えます。 しかしその内側には、「自分の場所を汚されたくない」という強い衝動があります。
それは、力を誇示するためではありません。美しく保たれた苔を、自分のものとして維持するため。 鮎は、自分の“美しい環境”を守るために戦う魚なのです。
▪️煩悩としての「美執」が、そっと滲む瞬間
仏教でいう煩悩「美執」とは、美しいものに執着し、それを手放せなくなる心を指します。
鮎を見ていると、この言葉がふと重なります。川の中で、自分の縄張りの苔を丹念に食み、他を寄せ付けず、常に最良の状態を保とうとする姿。
それは決して傲慢ではなく、むしろ必死で、健気で、どこか切ない。
鮎は「美しくあろう」と意識しているわけではありません。ただ、美しい状態でしか生きられない魚なのです。
▪️一年という寿命 —— 美が最も輝く時間
鮎の寿命はおよそ一年。 稚魚は冬を海で過ごし、春に川を昇り、夏に最盛期を迎え、秋には産卵を終え、その命を終えます。
最も美しい姿で川を泳ぐのは、ほんの数ヶ月。それ以外の時間は、準備と終わりへ向かう過程です。
だからこそ、鮎は特別なのかもしれません。 長く生きないから、美しさが際立つ。終わりが決まっているから、一瞬が輝く。人はそこに、自分自身の人生を重ねてきました。
▪️日本文化と鮎 —— 食べるという、静かな敬意
鮎ほど、日本人に丁寧に扱われてきた魚は多くありません。
その理由のひとつは、鮎が単なる川魚ではなく、“川の恵みを食べる”という体験そのものだからです。
鮎漁が特に盛んな地域として、まず名前が挙がるのは、たとえば——岐阜県の長良川。ここは古くからの鵜飼(うかい)でも知られ、鮎の文化が川と観光と食を丸ごと支えてきました。
次に、滋賀県の琵琶湖水系(安曇川など)。湖で育った「琵琶湖の鮎」は香りが良いと語られ、流通だけでなく地元の食卓でも夏の主役になっています。
さらに、熊本の球磨川や、高知の四万十川のように、「清流」という言葉がそのままブランドになる川では、鮎は“地域の誇り”として扱われます。
そして西日本では、和歌山(日高川)、徳島(吉野川)、宮崎(五ヶ瀬川)など、鮎の遡上が安定しやすい河川を抱える土地で、鮎は夏の風物詩として深く根づいています。
地域によって、鮎の食べ方にも性格が出ます。
王道はやはり鮎の塩焼き。串を打ち、姿のまま焼き上げる。皮が軽くはぜ、香りが立ち、身は淡く、内臓の苦味が夏の輪郭をつくります。 この苦味を「大人の味」とする文化は、鮎ならではです。どこかで、美しいものほど少し苦い——そんな感覚が、日本の鮎の食文化には宿っています。
一方、より“食の奥行き”が出るのは、次のような料理です。
鮎の甘露煮(かんろに): 骨ごと柔らかくなるまで炊き上げ、川魚の個性を丸ごと旨味に変えます。塩焼きが“今”の味なら、甘露煮は“時間”の味です。
鮎の背ごし(せごし): 小鮎を輪切りにして、骨の食感ごと味わう食べ方です。鮮度が前提で、食べ慣れた土地ほど自然に出てきます。川の力強さをそのまま口に入れるような料理です。
鮎の刺身/洗い : 地域と流通、そして衛生管理が整っていることが条件になりますが、鮮度のよい鮎は刺身や洗いで食べられることがあります。香りは繊細で、身の甘みよりも“清さ”が前に出ます。
鮎飯(あゆめし)・鮎雑炊: 焼いた鮎を米と炊いたり、出汁に落として雑炊にしたり。骨や皮から出る香りが、米に移って“川の匂いのごちそう”になります。
鮎寿司(熟れ鮨/なれずし系): 地域によっては、発酵文化として鮎を寿司にする土地もあります。鮎が「保存」と結びついた瞬間、魚は一段深い文化財になります。
鮎は、強い味で押し切る魚ではありません。 むしろ、香り・苦味・淡さ・余韻——そうした“引き算の味”で、食べる人の感覚を整えていく魚です。 ここにも鮎の「美執」が、ほんの少し滲んでいます。鮎は派手にならず、美しさの条件を崩さない。その生き方が、料理の扱われ方にも出てしまうのです。
▪️鮎の漁法 —— 「川の読み」と「鮎の性格」で成り立つ
鮎漁が面白いのは、鮎が“獲られやすい魚”ではないことです。鮎は川を読む人にだけ、少しだけ隙を見せる。 そのため、鮎漁の漁法には、鮎の性格がそのまま刻まれています。
1)友釣り(ともづり)—— 鮎の縄張り本能を利用する、世界的にも珍しい漁法
鮎は縄張り意識が強く、他の鮎が入ってくると追い払おうとします。 友釣りは、その性質を利用します。
釣り人は「囮(おとり)鮎」を一匹使い、縄張りに入れます。そこにいた野鮎が「侵入者だ」と突進して体当たりします。体当たりの瞬間に掛け針(イカリ針)が刺さり、掛かる。
つまり友釣りとは、餌で釣るのではなく、 鮎のプライド(縄張り)で釣る釣りです。この漁法が成立するのは、鮎が「場所」を持つ魚だから。 そしてそれは、鮎が「美しい苔の岩場」を守ろうとする性質と直結しています。友釣りの面白さは、魚を獲る技術であると同時に、鮎という存在の内面を相手にすることにあります。
2)投網(とあみ)—— 川の“流れ”と“たまり”を読む
網を投げ、落下する網で魚を包み込む漁法です。鮎が溜まりやすいポイント(流れの緩む場所、瀬と淵の境目、石の影)を読み、一投で決める。これは「魚を追う」というより、川の形を読んで獲る漁です。
3)簗(やな)—— 川の“通り道”そのものを使う漁
川の流れに木組みを作り、魚を誘導して落ち込ませて獲る漁法です。鮎が遡上・降下する“道”を読み、川の力で魚を集める。鮎の季節になると簗が立つ地域もあり、食文化と結びついた風景になります。
清流がなければ、鮎はいない。鮎は環境に極めて敏感な魚です。
水が濁れば姿を消し、流れが変われば遡上できない。
つまり、鮎がいるという事実そのものが、その川がまだ「美を保っている」証でもあります。
鮎は守られる存在であると同時に、守るべき基準でもある。
川と人と魚。
その三者の関係性の中で、鮎は静かに生き続けているのです。
▪️終わりに —— 鮎は、美にしがみついているのではない
鮎を見ていると、「美に執着する魚」という言葉が浮かびます。
けれど本当は、鮎は美にしがみついているのではありません。
美の中でしか、生きられない魚なのです。
美しい水。 美しい流れ。 美しい関係性。
それらが崩れた瞬間、鮎は姿を消します。だからこそ、鮎は教えてくれます。
美とは、所有するものではなく、維持され続ける関係性の中にしか存在しないのだと。
川を走る一瞬の光。 それが鮎です。
そしてその姿は、私たちが何を大切にして生きるのかを、今も静かに問いかけています。