10. “闇に棲む歯列”『ウツボ』という岩場の番人。
磯や岩礁帯に潜っていると、岩の奥からこちらを見つめる影に気づくことがあります。
大きく口を開け、鋭い歯を並べたその姿に、思わず身構えてしまう人も多いでしょう。
それがウツボです。
ウツボは、西日本の沿岸ではごく身近な存在です。
派手に泳ぎ回る魚ではありませんし、群れを作ることもありません。
彼らは岩の隙間に身を収め、自分の居場所を決め、そこで静かに暮らします。
その姿から「怖い魚」「危険な魚」と思われがちですが、
実際のウツボはとても合理的で、無駄な争いをしない生き物です。
▪️動かないことを選んだ生き方
ウツボは回遊魚ではありません。
広い海を旅することもなく、一度決めた巣穴に長く居着きます。
潮の当たり具合、餌の通り道、身を隠せる隙間——
条件が整っていれば、そこが彼らの世界になります。
泳ぎが得意な魚ではないため、
遠くまで獲物を追いかけるよりも「待つ」方が合理的です。
岩の影に潜み、通りかかった小魚や甲殻類を、
一瞬の動きで捕らえる。
この待ちの姿勢こそが、ウツボの生存戦略です。
動かないことは弱さではなく、
環境を読み切った結果なのです。
▪️歯が語るウツボの本性
ウツボといえば、まず歯が注目されます。
鋭く並んだ歯は、一度噛みついた獲物を逃がしません。
その印象から、人を襲う凶暴な魚と思われがちです。
しかし、ウツボが自ら人に向かってくることはほとんどありません。
噛まれる事故の多くは、
巣穴に不用意に手を入れた
追い詰めた
餌と間違えられた
といった状況です。
つまりウツボは、
自分の領域を侵されたとき、
逃げ場がないと判断したときだけ、
防御として噛むのです。
そこには感情的な怒りはなく、
過去の経験から学んだ行動があります。
▪️夜に動き出す静かな捕食者
昼間のウツボは、ほとんど動きません。
岩穴から顔を出し、口を開閉しながら呼吸をしています。
一見すると、ぼんやりしているようにも見えます。
しかし夜になると様子が変わります。
暗闇の中で、ゆっくりと巣穴を出て、
匂いや振動を頼りに獲物を探し始めます。
夜のウツボは、決して荒々しくありません。
慎重で、確実で、失敗を繰り返さない。
一度覚えた動きや危険を、きちんと身体に残している魚です。
夜に動き出す魚には、タチウオ(高速捕食型)とウツボ(待ち伏せ型)という、
まったく異なる生き方があります。
▪️「怨恨」という煩悩の影
ウツボの生き方には、
「怨恨」という煩悩の影が、ほんのりと重なります。
怨恨とは、激しい怒りを爆発させることではありません。
むしろ、忘れないこと。
同じ出来事を繰り返さないために、距離を保つこと。
ウツボは、
自分の身に起きたことを記憶し、
必要以上に近づかない。
その結果として、静かな威圧感を身にまとっているのです。
▪️漁師とウツボの関係
漁師にとって、ウツボは扱いづらい魚です。
網に絡み、外すのに時間がかかり、噛まれる危険もあります。
しかし同時に、
「ウツボがいる場所は、魚が多い」
とも言われます。
ウツボが棲める岩礁帯は、
小魚や甲殻類が豊富で、生態系が健全な証拠。
ウツボは、磯の環境を映す存在でもあります。
見た目の印象だけで誤解されやすい魚としては、
マンボウ(繊細な巨体)とウツボ(威圧的な外見)がよく対比されます。
▪️食文化としてのウツボ
地域によっては、ウツボは食用として親しまれてきました。
高知や和歌山などでは、
刺身、唐揚げや鍋にして食べられます。
皮は厚く、身は淡白。
ゼラチン質が多く、火を通すと驚くほど柔らかくなります。
見た目からは想像できない、上品な味わいです。
▪️漢字「鱓」に込められた意味
ウツボは「鱓」と書きます。
この漢字は、もともと中国で
細長い体を持つ魚全般を指す言葉でした。
ウナギやアナゴと同じ系譜の字で、
「長く、くねる魚」という形状を表しています。
岩の隙間に身をくねらせて生きるウツボに、
よく似合う漢字と言えるでしょう。
▪️終わりに——磯という世界で生きる魚
ウツボは、優しい魚ではありません。
しかし、理不尽な魚でもありません。
彼らは、
自分の居場所で起きた出来事を忘れず、
距離を測り、
同じ失敗を繰り返さないように生きています。
磯という限られた世界で、
経験を積み重ねながら、
静かに、確実に。
もし岩穴からこちらを見つめる視線に出会ったら、
恐れる前に、少しだけ立ち止まってみてください。
そこにいるのは、
過去を覚えたまま、生き抜いてきた魚なのです。