14. “境界を溶かす光の魅惑”イカの王様『アオリイカ』
海に潜む生きものの中で、「美しい」という言葉が最も静かに、そして確実に似合う存在がいます。
それが、アオリイカです。
鱗もなく、硬い殻に守られているわけでもない。それなのに、彼らは驚くほど堂々と海を漂い、時に圧倒的な存在感で人の視線を奪います。
アオリイカは、海の中の境界を溶かす生きものです。
獲物と背景、内と外、見る者と見られる者。そのすべての境目を、柔らかく曖昧にしてしまう力を持っています。
だからこそ、人は知らず知らずのうちに、アオリイカに“魅せられる”のです。
■ アオリイカの名前に込められたもの
まず、名前の話から始めましょう。
「アオリイカ」は、漢字では 「障泥烏賊」 と書かれます。
「障泥(あおり)」とは、馬具の一種で、馬の腹の横に垂らして泥はねを防ぐ布のこと。
アオリイカの大きく張り出した胴(外套膜)が、この障泥に似ていることから名付けられたと言われています。
そして「烏賊(いか)」は、 古くは「烏(からす)をも欺くほど墨を吐く賊」という意味を含む表記です。
つまりアオリイカという名前には、
大きく広がる布のような身体
視覚を欺く存在
形よりも“現れ方”が印象に残る生きもの
というイメージが、すでに織り込まれているのです。名前の段階で、もう“魅惑”が始まっています。
▪️西日本では、温暖で藻場のある沿岸にいる!
アオリイカは西日本を代表する高級イカであり、瀬戸内海、九州北部、四国南岸など、温暖で藻場のある沿岸域を中心に多く水揚げされます。
とくに長崎・五島列島や瀬戸内地域では、釣り・漁業・食文化のすべてにおいて「イカの王様」として特別な存在です。
▪️他のイカと同ちがう?
アオリイカは、マイカ(ケンサキイカ)やヤリイカ、スルメイカとは系統の異なる“別格のイカ”であり、その知性と存在感、そして味の完成度から、釣り人の間では「イカの王様」と呼ばれてきました。
西日本でよく知られるマイカ(ケンサキイカ)/ヤリイカ/スルメイカ は、
いずれも ツツイカ類(ヤリイカ科・アカイカ科など) に属します。
これに対して、アオリイカは「コウイカ目・アオリイカ科」つまり、完全に別のグループです。
ざっくりと分類するならば、
マイカ・ヤリイカ・スルメイカ→ 細長い胴、素早い遊泳、群れやすい
アオリイカ→ 幅広い胴、ゆったりした動き、単独行動が多い
見た目・動き・生態すべてが異なります。
アオリイカは、西日本でよく獲れる「身近なイカ」ではありますが、位置づけとしては“別枠の高級種”です。
■ 形を持たないようで、誰よりも洗練された身体
アオリイカの身体は、 一見するととてもシンプルです。
胴体、腕、触腕、目。魚のような骨格的な起伏はありません。
しかし、その単純さの中にある完成度は、他の海洋生物と比べても群を抜いています。
流線型の外套膜
滑らかに広がるエンペラ(ヒレ)
意思を持つかのように動く腕
そして何より、全身で色と質感を変える能力。
アオリイカは、筋肉の収縮と色素胞の制御によって、一瞬で体色・模様・光沢を変化させます。
それは「変装」というより、感情がそのまま表面に現れるような変化です。
怒り、警戒、求愛、安心。すべてが色になる。
この“内面が隠せない身体”こそ、アオリイカが持つ最大の魅力であり、そして、魅惑の正体でもあります。
アオリイカは成長すると非常に大きくなり、胴長40cmを超える個体も珍しくありません。
しかし、それ以上に特徴的なのは、動きの落ち着きと存在感です。
慌てず、騒がず、周囲を観察しながら、ゆっくり間合いを詰める。
この姿が、釣り人には「王様」のように映ります。
■ アオリイカは「見せる」生きもの
多くの魚は、できるだけ見つからないように生きています。
岩陰に隠れ、砂に潜り、群れに紛れ、色を消す。
しかしアオリイカは違います。
彼らは隠れながら、同時に見せるのです。
背景と同化しつつ、必要な瞬間だけ、わずかな光沢や色の揺らぎを走らせる。
それはまるで、「見せてもいい相手だけに、姿を明かす」
そんな距離感を保っているかのようです。
この距離感が、人を惹きつけます。
完全に姿を現さない。でも、完全には消えない。
まるで存在の濃度を無意識に調整しているかのようです。
■ 魅惑が、ほんのりと滲むところ
仏教的に言う「魅惑」とは、相手を引きつけることそのものではなく、
引きつけていることに、本人が無自覚である状態を指します。
アオリイカは、自分が美しいことを誇示しません。
ただ、最も合理的な生き方を選び続けた結果、その姿があまりにも洗練されてしまった。
無駄のない身体
無理のない動き
状況に応じた色
それらが合わさった結果として、見る者が「魅せられてしまう」。
つまりアオリイカは、魅せようとしていないのに、魅せてしまう存在です。
■ 漁師とアオリイカの、静かな駆け引き
アオリイカは、漁師にとって特別な存在です。
理由は単純で、賢いから。
網を嫌い、光を警戒し、状況の変化に敏感。
アオリイカは非常に賢く、
同じエギ(疑似餌)にはすぐ慣れる
光や音に敏感
一度警戒すると、簡単には戻ってこない
という性質を持っています。
釣り人側も、
潮の向き
光量
エギの色・動かし方
すべてを考え抜かなければならない。
力ではなく、知恵で釣るイカ。
だからこそ、アオリイカ漁は「待つ漁」になります。
潮、月、風、時間。すべてが揃わなければ、彼らは姿を見せません。
アオリイカは、偶然では釣れません。
だからこそ釣れた瞬間、釣り人はこう思います。
「ちゃんと向き合ったな」
この精神的な手応えが、他のイカとは決定的に違います。
奪い合う対象ではなく、駆け引きを楽しむ相手なのです。
■ 食文化におけるアオリイカの位置
アオリイカは、日本の食文化においても特別な存在です。
刺身にしたときの透明感
噛むほどに立ち上がる甘み
火を入れても失われない旨味
どれを取っても、派手さはありません。
しかし、一度その良さを知ると、他のイカでは満足できなくなる。
寿司ネタとして非常に評価が高いイカです。
理由は明確で、
身が厚い
繊維が細かい
甘味が強い
時間を置いても味が落ちにくい
という特徴を持つからです。
細かく隠し包丁を入れることで、ねっとりとした甘味が立ち上がる。
これは、マイカやスルメイカには出せない質感です。
西日本では、
刺身
イカそうめん
酢味噌和え
一夜干し
などでも親しまれています。
「瞬間的な美味しさ」よりも、噛んだ後に残る満足感で勝負するイカです。
■ 境界を越えていく生きもの
アオリイカは、浅場にも深場にも現れ、人の生活圏にも、自然の奥深くにも入り込んできます。
完全にどちらにも属さない。
その在り方は、現代を生きる人間にも、どこか重なります。
何者かになりきれない
でも、どこにも馴染めないわけではない
境界に立ち続けることそのものが、生き方になる
アオリイカは、そんな生き方を、
ただ海の中で実践しているだけなのです。
■ 終わりに――魅惑とは、溶けていくこと
アオリイカを見ていると、「魅惑」とは何かが、少し分かってきます。
それは、強く引き寄せる力ではなく、境界を溶かす力。
相手の輪郭を壊さずに、
自分の輪郭も押し付けずに、
ただ、距離だけを曖昧にする。
アオリイカは、その距離感の名手です。
もし海で彼らに出会ったなら、無理に追わないでください。
ただ、色の変化と、光の揺れと、その場の空気を、
少しだけ感じてみてください。
きっとそのとき、あなたも知らないうちに、
アオリイカの“魅惑”の中に、静かに足を踏み入れているはずです。