85. 『ムツゴロウ』なんでそうなった?水を飛び出し、泥生活を選んだ“魚界のファーストペンギン”
魚は水の中で暮らす。そんな常識を覆す魚がいます。
ムツゴロウです。
有明海の干潟では、潮が引くと魚たちが巣穴から姿を現し、泥の上を這い、餌を食べ、求愛で空中へ勢いよく跳び上がります。
ハゼ科の魚で、その身体は、魚類が普通なら避けるはずの「水のない時間」を利用する方向へ高度に適応していきました。
生態──海でも陸でもない「干潟」という世界
有明海は最大6~7mほどにもなる大きな潮位差を持ち、干潮になると広大な泥干潟が出現します。
河川から運ばれる栄養物質にも支えられ、独特な生物群集が形成されています。
ムツゴロウが選んだのは、この不安定な場所でした。
潮が満ちれば海底。潮が引けば地面。数時間ごとに「水中」と「陸上」が入れ替わります。
ムツゴロウは鰓(えら)だけでなく皮膚なども介してガス交換できるため、身体を湿った状態に保つことで干潟上でも活動できます。
泥上では胸びれなどを使って身体を移動させます。
頭の上方に突き出した目によって周囲を見渡せる姿も、完全な水中生活魚とはかなり違います。
さらに興味深いのが食性です。
肉食性のハゼ類が多い中、ムツゴロウは干潮時に泥表面へ出て、表面に増殖する底生珪藻などの微細藻類を泥ごと削り取るように食べます。
潮が引いた干潟は「魚にとって水がなくなる危険な場所」であると同時に、競争相手の少ない巨大な食卓でもあるのです。
「鯥五郎」──なぜムツゴロウという名前なのか
ムツゴロウには「鯥五郎」などの字が当てられます。
ただし、この漢字から語源をそのまま説明できるわけではなく、和名の由来には諸説があります。
有明海沿岸では単に**「ムツ」や「ムットウ」**などとも呼ばれてきました。
名前そのもの以上に重要なのは、ムツゴロウが有明海という土地と強く結びついた魚だということです。
日本全国どこにでもいるハゼではありません。
だから「ムツゴロウ」という名前には、魚種名だけでなく有明海の風景そのものが重なっています。
なぜ魚なのに陸上で呼吸できるのか
ムツゴロウを含むmudskipper類は、魚類の陸上適応を研究するうえでも興味深い存在です。
ただし「魚から両生類へ進化する途中」と考えるのは正確ではありません。
ムツゴロウは将来カエルになる途中の魚ではなく、潮間帯という特殊な環境に適応した現代の魚として完成しています。
重要なのは、陸へ行くことそのものではなく、水と陸の境界を往復できることです。
潮が満ちれば巣穴へ戻る。
潮が引けば泥上へ出る。
完全な陸上動物になる必要はありません。
水中魚としての能力を捨てずに、水中魚が利用しにくい時間帯だけ陸側の資源を使うという戦略なのです。
繁殖──泥の上で跳び、地下で命を守る
繁殖期は主に5~7月です。
この季節になると雄は縄張りを持ち、雌へ存在を示すために泥上から何度も大きくジャンプします。
有明海では、この求愛ジャンプ自体がムツゴロウを象徴する光景になっています。
しかし本当に面白いのは地下です。
ムツゴロウは柔らかな泥に巣穴を掘り、その内部で繁殖します。
有明海漁協の資料では、地下20~30cmほどの位置に横穴を作り、その天井に約1万個の卵を産み付け、孵化まで雄が世話をするとされています。
mudskipper類の巣穴繁殖については、さらに驚くべき研究があります。
巣穴内部の卵室へ雄が口に含んだ空気を運び込むことが確認されているのです。
泥中の水は低酸素になりやすいため、雄が卵室へ新鮮な空気を補給するのです。
そして胚の発生が完了すると、満ち潮に合わせて卵室を水没させ、孵化を誘導します。
魚が空気を運び、地下室の環境を調整する。
「水から出た変な魚」という印象より、はるかに複雑な生き物なのです。
ムツゴロウ釣り──「むつかけ」という異様な漁
ムツゴロウ漁で特に有名なのが、佐賀県有明海の伝統漁法**「むつかけ」**です。
普通の釣りとはかなり違います。
ムツゴロウは主に藻類を食べるため、餌を付けた針へ食いつかせる一般的な釣りには向きません。
そこで干潮時、泥上へ出ているムツゴロウを狙い、長い竿と針を使って引っ掛けて捕らえます。
有明海漁協によれば漁期は主に4~8月で、「むつかけ」のほか「むつごろううけ(タカッポ)」などの漁法があります。
広大な泥干潟の上で、小さな魚を遠くから狙う。これ自体が有明海の環境から生まれた特殊な漁文化です。
ムツゴロウは美味しい──有明海を代表する蒲焼
ムツゴロウ料理の代表は、何といっても蒲焼です。
佐賀県では古くから食べられてきた郷土料理で、現在も有明海を象徴する料理の一つです。
伝統的にはムツゴロウを素焼きにした後、醤油、砂糖、酒などを使った甘辛い煮汁でじっくり仕上げます。
一般的なウナギの蒲焼を想像すると少し違い、有明海漁協のレシピでは、素焼きしたムツゴロウを調味液へ入れ、煮汁がなくなるまでじっくり煮る方法が紹介されています。
焼く香ばしさと甘辛い味付けを合わせた、保存食的な性格も持つ料理です。
かつては盆の時期にもよく食べられ、夏の食文化と強く結びついていました。
鮮度のよい個体なら刺身として食べることもあり、味噌汁にするとだしが出るともされています。
そして非常に面白いのが須古ずしです。
佐賀県白石町須古地区に伝わる箱ずしで、酢飯を木箱へ敷き、錦糸卵、椎茸、ゴボウ、ニンジンなどとともに、伝統的にはムツゴロウの蒲焼を具として載せます。
祭りや祝い事、客人をもてなす料理として受け継がれてきました。現在では入手しにくくなったため、エビやコノシロなどで代用される場合もあります。
文化的価値──「魚らしさ」から外れた魚
ムツゴロウは有明海のシンボルです。
泥の上に魚がいる。
目玉を突き出して周囲を見る。
胸びれで移動する。
突然跳び上がる。
初めて見る人には、どこか「魚として間違っている」ようにさえ見えます。
しかし進化に「魚らしくあるべき」という規則はありません。
水中を高速で泳ぐことが正解の環境もあれば、
潮が引いた泥の上へ出ることが正解になる環境もあります。
人間社会でも、
既定の道から外れた人を見ると、
私たちは「変わった人」と呼びます。
学校を出る。
会社から離れる。
都市から出る。
既存の職業分類に入らない仕事を始める。
中心から見れば、
それは逸れた生き方です。
しかしムツゴロウを干潟から見ればどうでしょう。
そこには餌があります。
巣穴があります。
繁殖できます。
仲間もいます。
つまり、
道から外れたのではなく、
別の場所に道があっただけなのかもしれません。
水中から見れば奇妙な魚。
干潟から見れば、誰よりもそこに適した魚。
ムツゴロウという存在は、
「正常」と「逸脱」が、生き物そのものに備わった性質ではなく、
どこから眺めるかによって生まれる言葉なのだということまで教えてくれるようです。
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